日本リヒテンシュタイン協会
Japanisch-Liechtensteinische Gesellschaft

 

世界の切手収集家を魅了するミニ国家の切手(1)

遅い一番切手の発行とそれ以前

 この国の最初の切手は1912年2月1日に発行されている。往時の国家元首であった第10世侯爵・ヨハン2世のポートレイトを図案にしたものがそれである。
 具体的な切手図をご覧に入れよう。

 券面額は 5 Hellerヘラー 10 Heller 25 Heller の3種類。Heller と言うのは当時のオーストリアの補助通貨単位で、100 Heller = 1 Kroneクローネ である。さらに 10,000 Krone = 1 Schillingシリング と言うのが通貨だったそうである。リヒテンシュタインがその当時オートストリアの通貨を流通させ、経済的に密接な関係があった事が、この切手の券面額を見ても判る。又、切手の印刷の色はご覧の通り、低額面から順に、緑・赤・青となっている。これは万国郵便連合の加盟国の間での約束事から来ていて、緑色は国内向け封書の基本料金と外信向けの印刷物郵便用であり、赤色は外信向けハガキ料金、青色の切手は外信向け封書料金に対応させていた。(外信は船便が原則)
 要するに、外国へ郵便物を出す際は自国の郵便切手を貼って出す訳だが、他国から送られて来た郵便を引受けて配達をするのは郵送先の郵便局の役目である。そこで外国から差し出された郵便物に取り決めた正規の料金に相当する切手が貼られているかを判断しなければならない。その手段として切手の刷色を統一させる方式が考え出されたのだ。こうして決められた色区分を収集家はUPU(万国郵便連合)カラーと呼んでいる。第二次世界大戦前に発行された各国の切手は、外国通信用途に使われるものはこの規則を遵守していたのである。
 ところで、リヒテンシュタインの一番切手の発行が1912年と言うのは、1840年に英国で最初の切手・ペニー・ブラックが発行されて以来、郵便料金の前払証紙として切手の利便性が欧州諸国に浸透して、おおむね1860年代迄には欧州主要各国で切手が発行されていた史実を考えると、いささか後発の感が拭えない。それでは、1912年以前にはリヒテンシュタインでは近代郵便制度が導入されていなかったのではと速断する向きもあろうかと思うが、史実はそうではなく、それ以前にも切手を使用した郵便制度はこの国にも実在したのである。
 どうしていたかと言うと、何と、隣国であるオーストリアが発行していた切手を借用していたのである。如何にミニ国家と言え、少なくても独立国が自国の郵便に他国が発行する切手を使うなど有り得ない事だが、これがかなりの期間にわたり堂々と行われていたのである。
 実際にリヒテンシュタインでオーストリアの切手を使った例を二例程ご覧に入れる。消印の文字に VADUZファドゥーツ の地名がご確認頂けると思う。ファドゥーツは言うまでもなくリヒテンシュタイン侯国の首都である。

 上の切手は1883年に発行されたオーストリアの普通切手のシリーズの1種で、双頭の鷲の紋章が意匠されている。券面額は 10 Heller である。封筒から切手の部分だけを切り抜いたもので、こうした状態をオン・ピース又はカット・スクエアと呼んでいる。日本語では‘紙付き’と言う。
 下図の方は1908年に発行されたオーストリアの普通切手で、図案はフェルデナント1世の肖像である。こちらはより鮮明に VADUZ の消印の文字が読める。切手の券面は 20 Heller である。消印の日付は、何とか 15.Ⅶ の文字は判読出来るから7月15日だと言うところまでは判るが何年であったかまでは残念ながら判読出来ない。
 いずれにしても1912年に一番切手が発行される以前において、リヒテンシュタインでオーストリア切手を使った郵便制度が導入されていた事を示す証拠である。
 では、何故なぜそのような事になったかは、この国の建国の歴史と密接な関わり合いがあるが、それについての詳細は此処ここでは触れない。

 関心のある方は、日本リヒテンシュタイン協会の創設者である植田信行氏の著書「ミニ国家・リヒテンシュタイン侯国」(1999年初版:郁文堂・植田健嗣著)をご一読頂きたい。(植田健嗣は植田信行氏のペンネーム)ただ、結論的に解かり易く説明するなら、リヒテンシュタインの建国の嚆矢は、オーストリア帝国の皇帝(ハプスブルク家)の家臣だったリヒテンシュタイン家の先祖が、自前の国を持ちたいと言う願いを叶えるべく豊かな財力を使って現在のリヒテンシュタインの領地に相当する領地を買い入れ、ハプスブルク家がその事を後年承認した事に始まり、その事が曲がりなりにもこの国にとって、国家としての基礎が成立をしたと言う史実なのである。植田氏の著書の記述にイメージ的に非常に解かり易い表現あるので紹介すると、「オーストリア帝国とリヒテンシュタイン侯国との関係は親子会社であり、侯爵は親会社に籍がある子会社の社長である」と言う表現である。
 事実、オーストリア帝国がその権勢を誇っていた第一次世界大戦の終結までは、歴代のリヒテンシュタイン侯爵達はウィーンに住み、遠く離れた自国を遠隔操縦によって支配して来たのである。オーストリアの切手を自国の郵便に使用したのも、侯爵の意思であったと推察できる。

 1912年に自前の郵便切手を発行する際にも宗主国であるオーストリア帝国からの強い影響を受けていた事は上の切手からも窺い知れるであろう。
 帝国の皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世の肖像を図案にしたもので1910年の発行である。刷色はUPUカラーを使っている点でも同じだが、デザインも非常に似通っている。これは私の勝手な推測だが、両国間に主従関係があったから、自前の第一号切手を制作するに当たり宗主国に敬意を払ってデザインを拝借したのではないかと思う。
 それ程までにオーストリア帝国とリヒテンシュタイン侯国の関係は密接だったと言う事が切手からも判るのである。
 

第二回「オーストリアからスイスへ連携の変更」▶︎▶︎